僕の/俺の/私の文体練習

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石塚運昇さんが亡くなった/インターネット鳥葬について

 声優の石塚運昇さんが亡くなった。

 いきなり「さん」づけで呼んでいるけど、別に僕は声優業界の人間ではないし、運昇さんと個人的な面識があるわけでも当然ない。ただ、思わず「さん」づけで呼びたくなる人というのは面識の有無を問わずいるもので、僕にとって石塚運昇さんはその一人である。


 ニュースでは運昇さんの代表的な役としてポケモンオーキド博士が挙げられていた。世代的に考えて、僕が彼の声を最初に認識したのもオーキド博士の声としてだったはずだ(もちろん当時は声優の名前など意識していなかったけど)。

 今の僕が声優・石塚運昇の名を聞いて真っ先に思い浮かべる役は『カウボーイビバップ』のジェット・ブラックだ。訃報を知って最初に抱いたのは、もう『ビバップ』の新作は絶対に観れなくなっちゃったんだな、という一種の落胆だった。それは解散したバンドのメンバーが死んでしまったときのようなーーもっと具体的に言えば、数年前にミッシェル・ガン・エレファントアベフトシが亡くなったときに抱いたのと同じような感慨だった。

 

 訃報はTwitterのトレンド欄で知った。ここ数年、著名人の訃報を最初に知るのは専らトレンド欄だ。故人の名前は2〜3時間、長くても半日ほどトレンド欄に残り、そのうちに別のトレンディなワードに取って代わられる。その一連の現象を僕は勝手に「インターネット鳥葬」と呼んでいる。

 鳥葬とはチベット仏教に伝わる葬儀の方法で、平たく言うと死者の肉体を鳥に食べさせて処理するというものである。つまり、無数のアカウントが著名人の死にーーまさに鳥が群がるようにーー言及し、死をある種のコンテンツとして綺麗さっぱり消費し尽くしていく様子を鳥葬になぞらえているわけだ(奇しくもTwitterのブランドロゴは鳥の姿を模している)。

 もちろん、そんな小賢しいことを考えながら高みの見物を決め込んでいる僕もネット鳥葬に加担する者の一人には違いないのだが、それでもやはり、ネット上での「死」の取り扱いはこれで良いのだろうかという思いは拭いきれない。だからこんな文章を書いている。

 

 家族や恋人、友人など近しい人を亡くした際にひどく落ち込むのは、生物として真っ当で自然な反応なのだと、何かの本あるいは記事で読んだ覚えがある。それは風邪を引いたときに熱が出るのと同じで、個体が自らを守るために必要な、ほとんど動物的な反応なのだと。
 現代の情報技術は、直接会ったこともない人、それでありながら強い親しみを感じている人の死を、ほぼリアルタイムで知る機会を僕たちにもたらした。そのバーチャルかつリアルな「死」をどう受け止め処理していいのか、動物としての僕たちはまだ変化についていけていないのかもしれない。

 

 この文章を書いている2018年8月17日23時30分現在、すでにトレンド欄に「石塚運昇さん」の文字はない。

 

 文章の性質上、最後に記すのはどうしても紋切り型の言葉になる。しかし古今東西、あらゆる祈りが定型的なものであることからわかる通り、とめどない不定形の悲しみや苦しみは型に落とし込むことによってのみ慰撫される。そういうものだと思う。では。

 石塚運昇さんのご冥福をお祈りいたします。